記憶の中に残るもの 上


「オーブも戦後の混乱期からは脱してきている。今は過渡期だ」
 代表首長の執務室で、夕焼けに染まる窓を背にカガリは言った。
「トーヤも立派に育ったよ。その歳のわたしとは大違いだ」
 カガリが顔を歪める。
 悔やんでいるのだろうか。 自らの手によってオーブの中立を離してしまったことを。
「まだ早いと思ってしまう。でもな、この機を逃したらわたしはトーヤに次を託すことができない気がするんだ」
 だからな、と静かに告げられた。
「わたしはそろそろ引退しようと思う」
 そのためにトーヤは十四のときから傍につき学んできたのだ。
 一年目はただ何もわからず翻弄されるままだった。
 二年目も気付けば過ぎ去っていた。
 三年目になってやっと一年のサイクルが見えてきた気がすると思えばあっという間に時は流れた。
「それはカガリ姉さまの左手薬指の指輪も理由ですか?」
 人払いのされた執務室にはいまカガリとトーヤのふたりだけ。もっとも開け放たれた扉の向こうの隣室には補佐官たちが控えているが。
「さすがトーヤだな」
 朝方会ったときはなかったものが、話があると呼び出された時に着けてあれば察しろと言っているものだ。
 トーヤとてその意味を知らない幼子ではない。
 彼の人の瞳の色を写し取った石が嵌められた指輪。
 待っていたのだろう。
 自分が一人前になるのを。
 カガリはオーブのために走り続けてきた。そんな彼女が自己の未来を明確にした。
  お待たせしました、アスハ代表」
 トーヤが後を継いだときに合わせ色々と準備されているのも気付いている。
 それを受け取るのが自分の役目。
「あとを頼むな」
 その顔には穏やかな笑みがあった。



 トーヤ・マシマも後継者として成長した。
 カガリが代表首長となってからの年数は片手を越え、オーブもまた変わりつつあった。
   時は満ちた。
「アスラン・ザラ一佐からの結婚の申し込みを了承した。わたしは彼と結婚する。ついては代表首長を退きたい」
 その日の定例議会はオーブ連合首長国代表首長カガリ・ユラ・アスハから発された引退宣言をもって幕を開けた。
「結婚されても代表首長を続けられたらいいではないか」
「わたしは長く居過ぎた。そもそもアスハが続けて代表首長を務めていることは解消すべきことだし、同じ人間が何年もいていい地位ではない」
「代表首長を退かれたあとはどうされるのです」
「わたしがアスハ家の家長には変わりない。首長家の一員としての責務は果たすが去るべき人間だ。しばらくは表舞台から距離を置かせてもらう」
 決まりきった問答を繰り返す。引退に関しての水面下での話は済んでいても議事録を残さなければならないのが政治家の面倒くさいところだ。
「けれども国民はカガリさまを求めています」
「くどい。何度も言わせるな、わたしは退く。
  引き際を誤らせるな」
 ついカガリは机を叩いた。
「だいたい代表首長を務めながら子育てなんてできないだろうが!」
 つい零れでてしまった本音。
 その言葉に議場にいた人の目がいっせいにカガリの腹部へと集まる。
「まだ何も入っていない!」
 カガリは空咳をすると議場を見渡した。
「わたしとて為政者の前にただの女だ。好きな男との子を産みたいし、産んだら自らの手で育てたいという夢はある。もちろん彼は第二世代コーディネーターだ  子はできないかもしれない。けれども為す前から諦めるのは違うのではないか」
 カガリは席につく首長たちを見渡した。
「わたしにとってオーブは大切な国だ。それと同じくわたしがわたしであるためにアスラン・ザラは必要な人間なんだ」
「カガリさま。あなたがオーブ復興のために尽力されてきたことを我々は理解し感謝しております。そのために何年も頑張ってこられてこと  もちろん彼とのことも。しかし、国民感情も慮っていただけないでしょうか」
 彼らの言いたいことも解かる。
 アスランがパトリック・ザラの子という事実は変えようがない。
 また彼が戦争の最中、陣営を変えたということ。
 オーブに弓引いたことがあることも。
 アスランに対する反発は予想される。
 軍、行政府に勤める者ならば彼のことを知っている人は多々いるだろう。けれども基本的に公人ではないアスランは国民からすれば、その事実だけが目についてしまう。
「おふたりの婚約に関しまして、ひとつ提案がございます」
 なんだ、とカガリが返すと首長のひとりが見据えるように言った。
「全てを詳らかにする必要はありません。軍のひいてはオーブの機密にも関わりましょう。アスラン・ザラ一佐の経歴を公表していただきたい」
 カガリは息をのんだ。
 包み隠さず明かせと。
  ッ、アスランは一般人だぞ」
 だからです、と彼は重ねる。
「彼は一軍人かもしれない。けれどもあなたと結婚するということはそういう事です」
「……わたしの一存では返答できない。  時間が欲しい」
「もちろんです。カガリさま、ご婚約おめでとうございます」
 未だに老獪な狸の相手は骨を折るとカガリは顔が引きつるのがわかった。