湖上の月影 1










 狭間。
 境界。
 世界の接する場所。
 扉。
 番人。







 これらの言葉が意味するものは一つ。
 自らが生を受けた世界とは異なる世界がある。
 それらの世界は【扉】と呼ばれる不可視で不安定な出入り口で結ばれている。
 理に沿い【扉】は開き、また閉じる。けれどもその理から外れ【扉】が開くときがある。
 それは【扉の番人】が任に就いたとき。
 境界の守護者ともいわれる【扉の番人】が館に現れたとき、すべての【扉】は館へと結ばれる。
 世界の狭間  1境界に館はある。
 今から五百年ほど前、記録に残るマルキオ導師とも呼ばれる最後の番人が去って以来、新たな【扉の番人】は現れていない。
 彼の残した言葉に「館は番人にだけ、その扉を開くでしょう」とある。
 つまりは館に辿り着いた者こそ【扉】を開くことが出来る【扉の番人】であろう  









 火を灯したろうそくに青く着色された蝋を近づける。熱で軟らかくなった蝋を封書の上に垂らし、彼は左手の人差し指に嵌めていた指輪を外し蝋の上に押し付けた。
 刻まれた印は彼の身分を示す。
 蝋が固まるのを待って彼は封書を表に返し、宛名を再度確認すると彼は満足げにうなずいた。  どこからどう見ても立派な手紙だ。

「これでよし」

 これなら文句を言われることもないだろう。

「来る前には事前に知らせろって、うるさいんだよね。あそこの執事。いつも怒ってる気がする。カルシウム不足なのかな」

 ぶつぶつと呟きながら、机の上に置いてあるベルを鳴らすと十を数えないうちに彼しかいなかった部屋に別の気配が増える。それは封書を受け取ると現れたときと同じくあっという間に姿を消した。
 彼だけとなった部屋で、ろうそくの火が蝋芯を燃やす音だけが静かにこだましていた。


***


 霧が覆っているにもかかわらず、どこまでも深く、果て無い底まで見通すことができる湖に、空に浮かぶ月が影を落とす。
 双の月は未だ天上で挨拶を交わさない。太陽は姿を隠し、その光を朱と白の月に照らし明かりを与えるだけ。
 月明かりの下で咲く薔薇が、霧の中に匂いを撒く。迷わすように。
 境界の守護者たる【扉の番人】の館は湖のほとりに建つ。何本もの尖塔を持つ黒の城館の一室。月が反す光も当たらない場所に彼は居室を与えられていた。
 壁一面に備え付けられた書棚からだけでなく、机上のみならず部屋の至る所に書物が溢れ占拠する。
 燭台に灯した明かりが揺らぎ影を映す。
 乱立する書物の森の中で机に向かいイザークは一心に手を動かしていた。
 インクを満たした磁器に銀色のペン先をつける。一点の染みを作ることなく真新しい白の紙面に黒色の流れるような文字を書き記していく。

  【扉の番人】マルキオ導師が死去すると同時に【扉】は閉ざされ館は霧の中に飲まれた。以後、館の姿を見たものはいない。しかし、その幻とも言われる館を見つけ出した者がいる。名を】
 ペン先が紙の繊維を引っ掛けインクが滲む。
 どこか遠くを見るようにインクの広がり行く様を眺めていたイザークは嘆息するとペンを置いた。

「どうした、ディアッカ」

 インクが擦れてしまわないように紙を重ねながらイザークは問う。

「気づいていたか。一心不乱に書いていたから、いつ気づくかなと思ったが案外早かったな」

 残念だ、とディアッカと名を呼ばれた金髪の侵入者は肩をすくめた。

「気配も消さずに来ればすぐ気づく」

「それもそうか  。それでだな、ちょっと来てもらっていいか」

 すまなさそうにディアッカは頬をかく。

「どこへ」

「イザークさんの管轄へ」

 書物で隠されていた姿見の前で服装を整え、イザークは常に身に着けている懐中時計を引っ張りだし時間を確認すると、ディアッカと連れ立って部屋を出た。
 等間隔に設置された燭台が唯一の光源となり暗い廊下にわずかな明かりを供する。
 長い廊下を抜け階段を上がりまた廊下を進む。
 歩くではなく走るような速さで進む後姿をディアッカは慌てて追いかけていく。
 驚いた顔で見送る館の同僚たちを横目に長い廊下を抜け階段を上がりまた廊下を進む。何度かそれを繰り返した先に目的の部屋の扉が見える。

「旦那様はどうしている」

「旦那ならまだ地下室で寝ているぞ」

 ディアッカの答えにイザークは歩を止めた。

「また、寝台ではなく棺で寝ているのか?」

 解りきった答えを求めてつい問い返す。

「二日くらい起きっぱなしだったから寝台だろうが棺だろうが寝てくれたらいいんじゃないか? いつものことだ  それに、寝ていてくれたほうが丁度いいかもしれないな」

 その含みのある言に片眼鏡を押し上げながらイザークは眉根を寄せる。

「お前がいないから俺が受け取った。だいたい、あれがなければ俺だってイザークの至福のひと時の邪魔をしに行かない」

 殺風景な室内の中央には幅広の机。机上には山が築かれていた。それらは館に届けられた郵便物だ。その山のたもとに何が入っているのだと言いたくなるような分厚い封書が一通ある。

  剣を食む獅子」

 封蝋の刻印の印章は【調停者】と呼ばれる一族の次代のみ使えるもの。
 いつもならば主の名が記されている表面にはしかし「館の皆々様へ」とだけ書かれている。
「いつもと違うだけに引っかかりを覚えるんだよな」

 腕を組みディアッカは唸る。

「何のつもりで送ってきたか、読めばわかることだ」

 沈着に切り返し、イザークはペーパーナイフを取り出し封を切る。封書の中から出てきた何十枚もの紙を素早く目を通していた動きが最後の一枚で止まった。
「ディアッカ」

 手紙に視線を落としたまま呼ぶ。

「何でしょか。イザークさん」

「人間界の暦」

「人間界の暦?」

 鸚鵡返しにディアッカは首をかしげた。

「そんなもの、うちにあったか?」

「旦那様の執務室と人間界への扉の脇には掛けてある」

「扉の脇? ああ、カレンダーか」

「早急に必要だ」

 イザークの有無を言わせぬ強い口調に、ディアッカは「取ってくる」と部屋から走り出す。
 番人の館では【扉の番人】の育った世界の暦を用いている。それはいくつかの世界では共通するものであるが、いくつかの世界では異なるものであった。
 人間界は後者である。

〈前略 館の皆々様へ〉

 その書き出しで始まった手紙の末尾には三月八日にあちらの世界へ行くために館へ寄ると記されていた。

「面倒な客人が来る」

 手紙を片手にイザークはひとりごちた。








book / 2009.08.23
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