Promettre son amour 1





On ne fait pas d’omelette sans casser des œufs.
    卵を割らないとオムレツは作れない





 沈み行く夕陽が海を染め上げ、夕焼けの広がる空に紫紺の絨毯が敷かれていく。
棚引く雲が紫色に色づき、鮮やかなオレンジ色が一筋、海の上に伸びていた。白波にキラキラと光りが散る。
 夜が近づくにつれて、周りの音はその勢いを潜め、緩やかに打ち寄せる波の音だけが大きくなっていく。
 日が暮れるにつれ、肌寒さを伴ってきた風に吹かれ小さく身震いをすると、テラスの手摺りを握りキラは空を見上げた。
 不思議な色が混じり合い、果てなく続く宇宙(そら)に、星の瞬きが一つ、また一つと露わになっていく。
地球から見る宇宙には、明るい星、暗い星、いろいろな星を見ることが出来るが、あの漆黒の闇の中で、星の姿を目にしたことがあったろうか。  もっとも、あの時、星を見るという余裕なんて、どこにもなかったけれど。
 ここにいると、モビルスーツに乗っていたことや、あの宇宙にいたことが、昨日のことのようにも随分と昔のことのようにも思えてくる。
 あの出来事が、全部夢ではないのかと思ってしまうほど、この場所は世俗から隔離されていた。もっとも、通信機器などがあるから、完全に世間から切り離されているということはないのだが。
 ぼんやりとしているうちに一日は始まり、終わる。
 海に囲まれた小さな島。
 陽が昇り、陽が沈む。
 海を渡る風は穏やかで、激しくて。
 絶え間なく響く波の音。
 時の長さは同じなのに、今、自分を包む時は、あの頃よりもゆっくりと流れているように感じる。
 鈍い音がして、テラスに通じる扉が開かれた。パタパタと走り回る足音、子どもたちの笑い声、物のぶつかる音  それまで遮断されていたざわめきが漏れてくる。
ゆっくりと視線を動かし、そこから顔を出した人影を見て、キラは軽く笑んだ。

  アスラン」

 名を呼ばれ、振り向いた彼の濃紺の髪を海から吹き寄せる風がなびかせた。
 アスランはキラの双子の片割れであるカガリと、このマルキオ導師の孤島にやって来た。彼女と共に明日まで滞在することになっている。
 この島には自分たちしか住んでいない。変化のない日々は子どもたちにとって退屈なものらしく、アスランとカガリがやって来ると、子どもたちは待ちわびていたように、二人のもとへ駆けていく。先ほど、キラがテラスに出たときも、アスランは彼らに取り囲まれていたのだが、やっとその中から抜け出してきたらしい。
 アスランは苦笑を浮かべ、隣に来て並ぶ。

「……誰も俺のことを『アレックス』と呼んでくれないんだな」

 アレックス・ディノ  それが、彼の名前。
戦後、オーブに亡命したアスランは、それ故に『アスラン・ザラ』を名乗ることは出来ない。まして、アスランの父はあのパトリック・ザラだ。ザラという名にはいろいろと厄介なものが付きまとってしまう。

「子どもたちは? 一応、教えたんでしょう?」

 一応、を強調しながら意地悪くたずねると、アスランが睨んできた。答えを知っているのなら聞くな、と言いたげに。たしかに、一部始終を見ていたのだから、その答えを聞くまでもないのだが。
 アスランの憮然とした顔に、キラは笑う。
 結局、彼は子どもたちに『アレックス』の名を教え込むことはできなかったらしい。
そんな彼の隣で、必死になって『アスラン』と連呼していた陽光のような金髪を持った少女。そういえば、自分は彼女がアスランを『アレックス』と呼んだことを聞いたことがない。

「カガリは?」

 先日、オーブの代表首長に就任したカガリ。アレックスはその護衛。必然的にアレックスとカガリは、共にいる時間が長いはずだ。

「あいつが俺のことを『アレックス』と呼んだのは、片手で足りる回数だよ」

 アスランは複雑な表情を浮かべた。

「カガリらしいね」

 カガリとて理解しているだろうから、公の場で、彼の名を呼ぶことはないだろう。だが、アレックスと呼ばないのは、彼女なりの抵抗であり、不器用な気遣いなのかもしれない。
 それに、とキラは思う。
 友に付けられた、偽りの名。
彼女同様、自分もアスランのことをアレックスと呼ぶことはないだろう。
 アスランは身を反し、手摺りにもたれ掛かると俯いた。
 なびいた髪が彼の横顔を隠す。
 風が啼いた。

「子どもたちに  

 何かに耐えるように、アスランはその言葉を吐いた。

「アスランなのに、どうしてアスランじゃないの? てたずねられたよ」

 アスランなのに、アスランじゃない。
   どうして。
 なんて残酷な言葉なのだろうか。
 子どもたちの無邪気な問い。
 あの戦争で、母を失い、父をも失ったアスランに残された家族の絆。
『アスラン』と名付けたのは、おばさんだろうか? それとも、彼のお父さんなのだろうか。亡くした両親と彼を繋ぐもの。それさえもアスランは隠さねばならない。
名乗ることの出来ない名前  

「アスランはアスランだよ」

 十三の歳まで一緒にいた親友。戦争が起きたため離ればなれになり、邂逅したときは敵同士だった。過ぎ去った時が戻ってくることはなくても、それでも、再び手を取り合うことができた。
目の前にいるのは幼なじみのアスラン・ザラだ。他の誰でもない。

「アレックスを名乗っても、君がアスランであることには変わりない」

「当たり前だ」

 でも、とアスランはそこで言葉を切った。

  アスラン・ザラは、カガリ・ユラ・アスハの傍にはいられない」

 それはかき消されそうなほど小さな叫び。
 アスランは端正な顔を歪め、自虐的な笑みを浮かべる。

「覚悟はしていたけれど、……やっぱり、辛いな」

彼は拳を握りしめていた。
夕陽を背に受け、それが深い陰影を刻む。

「……アスラン」

 思いを絡めるように、強く風が吹いた。
 砂が幾重にも波打っていく。
 あの戦争で失ったもの。そして得たもの。
 頭上に広がるあの宇宙で消えた、いくつもの灯火。
 ラクスやカガリとの出会い。
戦争が起こらなければ、知りうることもなかっただろう自身の  出生の秘密。
 キラは手摺りを離れると、テラスから浜辺に下りた。歩くたびにザクッ、ザクッと靴が砂にめり込み、すでに馴染みのものとなった潮の匂いが纏わりついてくる。  全てを飲み込むかのように、太陽が水平線の彼方に没していく。

「……変な感じだよね」

 天を仰げば夕と夜の狭間に、白い月が浮かんでいた。

「何がだ?」

 アスランがこうべを振った。

  こんな風に、月を見上げるの」

 見上げた空に浮かぶ月。
 その言葉に、アスランも手摺りから身を乗り出し、感慨深げに頷いた。
 月  かつて住んでいた場所。
もし戦争が起こらなければ、自分はヘリオポリスに行くこともなく、他愛のない日々を送り、あの場所に住んでいたのだろうか。
 あの憎しみも哀しみも、怒りも知ることもなく。
 けれど、あの頃の僕らはもういない。あの頃のように無邪気に笑っていられる自分たちはいない。
 知ってしまったから。
 混沌に蠢く世界を。
 あたりは薄闇が覆い、窓から漏れる淡い暖色の光が、影を作り出していた。
 その影が歪む。
 パタパタと足音がし、扉が勢いよく開かれ、子供たちが顔を覗かせた。

「おにいちゃんたち! もうすぐご飯できるよ!」

「今日は、ラクスとカガリが作ったんだぞ!」

「カガリおねえちゃんが、すっごいの作ったんだから!!」

「早くしないとなくなるよ」

 矢継ぎ早にそれだけ言うと、再び、音をたて扉を閉めた。あとには、美味しそうなご飯の匂いが残る。
 キラはアスランと顔を見合わせ、吹き出した。なぜだかとても可笑しくて、目尻に涙が浮かんでくる。
 ふとキラは、アスランを見やる。

「カガリ、料理出来たんだね」

 失礼かもしれないけど、黙っていればお姫様、口を開けばおてんば娘の彼女が料理なんて、どちらのイメージでも程遠い。もっとも人のイメージなんて、当てにならないことはありありと経験したのだが……。
 さも意外そうだ、といわんばかりのキラに、アスランは目をまばたき、ああ、と頷く。

「作法の一つとして料理を習ったそうだ」

 へー、とキラが感嘆の声をあげると、

「見かけは悪いけどな」

 心なしか、彼は頬を赤らめていた。
   見かけは悪い?

「ふーん、じゃあ、アスランはカガリの手料理を食べたことがあるんだ」

「何度か。美味しいよ。それに、最近、見かけもよくなったし」

 ぶっきらぼうに言いながらも、アスランは優しい笑みを浮かべている。
   アスラン、それ、惚気だよ。
 キラはアスランを睨め付けた。
 まったく、さっきまで悲しみにくれていた君はどこにいったんだ、と言いたくなるくらい、アスランは幸せそうな表情をしている。
 なんだか面白くない。
 キラはそっぽを向くと、溜息を吐いた。
 残光を受け、砂の中で何かがキラリと光る。目を凝らして見ると、それは波にもまれ、この砂浜にたどり着いた、薄い赤色の珊瑚のカケラ。
 ふいに、脳裏をピンク色の影がよぎる。
 戦中から自分を支えてくれた少女。
 ラクス・クライン。
 料理。
 白と黒。
 黄色の物体。
 まるで連想ゲームをしているかのように次々に浮かび上がる、忘れることなど出来るはずもない思い出。

  愛って偉大だよね」

「…………は?」

 アスランの間の抜けたような顔を横目に見ながら、キラは子どものように、浜辺に落ちる影を踏んでいく。

  アスランはさ、ラクスの料理、食べたことある?」

 それは、重大かつ重要な問題。

 突然の問いかけに、アスランは怪訝そうに頷いた。

「ここに」

 言葉を遮るようにキラは言う。

「プラントにいた頃」

「プラントにいた頃?」

 鸚鵡返しにアスランが問いかける。そう、とキラが頷くと、彼は顔を仰いだ。

「……お茶はあるが  

 たぶん、アスランもないのだろう。
 アスランと一騎打ちをし、その後プラントに運ばれて、クライン邸に滞在していたが、そこで彼女が料理をしているところを見たことがない。目にしたのは彼同様、ラクスがお茶を入れているところだけ。
 婚約時代に彼女の手料理を食べる機会がなかった彼は、ある意味運がいいのかもしれない。

「ラクスの料理がどうかしたのか?」

 キラは虚ろにアスランから視線をそらすと、どこか遠くを眺めながらぼそりと呟いた。

「アスランは幸せだね……」

 キラ? と彼の声が降ってくる。
 そう。たとえ見かけが悪かろうと、彼女(あまり、認めたくないけれど)の美味しい手料理を食べられたのだから。


 もう口にすることはない、ラクスのあの料理。
 忘れたくても忘れられない、あの味  
 今の彼女の料理からは、想像も出来ないあの……。
 それは、数ヶ月前のあの日に遡る  









book / 2005.08.21
web / 2024.05.12