アスラン少年の苦労日記 Diary log:03 Autumn 3





 朝夕の冷え込みが少しずつ木々の葉を染めていく。玄関先の金木犀がオレンジ色の花を咲かせ甘い香りを風に乗せていた。
 日が出ている時間帯であれば感じないその移ろいも明け方となれば別だ。
 うなじを撫でるように風がすり抜けていき、アスランは身体を震わせた。ブレザーを着ていても素肌にふれる冷たさは防ぎようがない。
 澄んできた空気が冷たい。
 東の稜線が赤く染まっている。
 雲のない空に星が浮かび、白い月が西の端に姿を残す。
「やっぱり、明け方も寒くなってきたな」
 金属の磨れる音がして、遅れて玄関にやってきたカガリが鍵を閉めながら空を見上げた。
 ああ、とアスランはうなずくと、カガリが持ってきた籐のバケットを手に取る。
 バケットの中身は先ほどまでアスランとカガリが作ったおにぎりやサンドウィッチだ。
「喜んでもらえられるといいんだけれど」
「泊り込みを免除してもらう代わりに希望を聞いて作ったのだから文句を言う人はいないと思うよ」
「あれだけの種類のサンドウィッチやおにぎりを作ったのは日去りぶりだな。しかし、茶粥というリクエストにはビックリだ」
「ああ、イザークのだな」
 生徒会室で聞いたときも同席していたメンバーが目を丸くしていた。
 「土鍋で炊いた茶粥は最高だ」というイザークに、冬も近いこともあり鍋料理について盛り上がり、挙句生徒会で土鍋を購入するか否という話にまで発展していた。
 もっとも何でもありな生徒会室だ。探せば土鍋の一つや二つ、出てくるかもしれない。
「さすがにそれは難しいからおにぎりを使った即席茶漬けで妥協してもらったよ」
 見送りに来てくれたのか、庭から顔をのぞかせたジャスティスの頭をなで、二人は肩を並べて人通りの少ない住宅街を歩いていく。
 朝も早い時間帯。まだ静けさが世界を制し、遠く離れた路線を通る電車の音が聞こえてくる。
「今日も良い天気になりそうだな」
 アスランは手を差し出し繋ぐ。二人して幼い子どものように手を振った。
 見慣れた景色がいつもとは違って見えてくる。
「最終打ち合わせを兼ねて七時に集合だったよな」
 アスランとカガリのクラスでは教室を使って模擬店をすることになっていた。
「うん、そうだぞ。けれど、集まれる子は最後の仕上げのために始発の時間に学校に来るようと先生が言っていた」
「ノイマン先生張り切っているな」
「先生は料理をするのが好きらしいからな。模擬店部門の一位を狙うぞ!」
 夜明けの光を受け、高らかに拳を掲げる少女は実に神々しかった。
「しかし、実行委員会の仕事があって最後はほとんど準備に参加できなかったからな。でも、試食の差し入れは助かった」
「アスランの作ったメニュー立ては女子に人気だったぞ。ステラの誕生日に毎年あげているハロだよな、あのデザイン。試食は捌くのが大変だったけど、喜んでもらえてよかった」
 調子に乗って作りすぎるからだ、と呆れるカガリにアスランは苦笑いを浮かべる。
「カガリ、今日は九時半に正門でいいかな」
「いいぞ。オープニングセレモニーが終わったら直行だな。  あ、アスラン」
「何?」
「アスランは実行委員の見回りとかはないのか? 今日の午前中はわたしたちと回って午後は舞台だろう。明日も昼前の時間からクラスの受付当番になっているじゃないか」
 クラスの文化委員が、自由時間が少ないと愚痴っていたのをカガリは漏れ聞いていた。クラスや部活動のことだけに専念していればいいカガリたち一般の生徒に比べるとアスランたちはやることが山ほどあるはずだ。
 カガリの問いにアスランは、
「それは大丈夫。生徒会役員特権で見回りは振り分けられてないから。ただその代わりが前日の泊り込みだけれどね」
 なんとも涼やかな答えを返した。



 振動音がテーブルを揺らし不快な音を奏で始めた。
 すぐに鳴り止むだろうと打算した思いとは裏腹に、耳障りな音は絶えず眠りの世界へ戻ろうとする彼を現に引き止めようとする。
 睡魔に負けても困りはしない。けれどもそうは問屋が卸さない。
 未だ眠気の残る頭で、ディアッカは振動し続けている携帯電話のアラームを緩慢な動作で止めた。画面に表示されている時刻は、いつもなら布団の中で眠りに浸っている時間だ。まだ身体も起ききっていないため、動かすことも億劫で腕をぶらりと投げ出す。
 なんとか眼を開いているものの、まぶたを閉じればすぐにでも夢の世界へ旅立てそうだ。だが、そんな至福な時間も直に終わるだろう。
 今日は高校最後の文化祭の初日。そんな日の始まりを男の怒声で始まるのはごめんだ。
 寝床代わりにしていたソファから身体を起こし、ディアッカは二つ、三つ欠伸を零す。狭い空間に身体を丸めて寝たせいか節々が痛い。足の筋を伸ばしながら首を回す。
 カーテンの隙間から朝日が滑り込む。
 向かいのソファには顔だけだして布団を被り、蓑虫のように縮こまり眠るソルの姿がある。眠りが深いのかアラーム音に起きることなく未だ寝息を立てていた。この様子だと当分目覚める気配はない。  ラクスの定位置であるソファには畳まれた掛け布団が二組置かれていた。
 ニコルはディアッカと入れ替わるように起きだして再び準備に奔走し始めていたし、眠っていたイザークもすでに起きているようだ。
  一時間寝られただけでもマシか」
 貫徹覚悟でいた。睡眠を欲してもそれを上回る若さはあると自負している。それでも、多少の睡眠が取っただけでも随分と身体への負担は違う。しかし、この場合どちらがよかったのか自分でも少し悩むところだが。
 文化祭実行委員会上層部  すなわち生徒会メンバーが文化祭前日に最後の準備のために学校へ泊り込むことは最初から決まっていた。
 当初組まれていたタイムスケジュールには、たっぷりとまではいかなくともある程度の睡眠が取れる時間は確保されていた。しかし、楽観視していた事柄は、とある男の一言で覆されることとなる。
「生徒は午後八時には学校を出て一度帰宅をするように。泊り込みは厳禁だ。だが、日付を越えて明日になればどの時間でも学校へ来ることは許可する」
 六時間目の終わりに開かれた全校集会の場で発表された連絡事項。その後、イザークに引きずられるように連れて行かれた化学準備室で、ビーカーを片手に待ち受けていた男は悠然と言った。
「教員も泊まり込みだ。もちろん、君たちもだからな。寝られるときに寝ておけよ」
 そんなこんなで、午後八時の生徒追い出しを皮切りに最終準備と打ち合わせを終え、寝床の都合上泊まれない(生徒会室で雑魚寝状態になるため)ラクスとシホ、家庭の事情で帰るアスランを見送り一休みをしていたらいつの間にか日付を跨ぎ、絵の具や筆などを調達しに来た生徒の対応で寝る時間などなかった。
 このときばかりはあの男のコーヒーの差し入れが有難かったことか。虎は今こそはとばかりに教員にも嬉々として配り歩いていた。あのコーヒーを感謝する日が来るとは思わなかった。
 世の中なにが起こるかわからないもんだ。
 ディアッカは寝ぼけ眼をこすりながら、顔を洗おうと二階へ上がる。階段を上りきった先の踊り場には、なぜか洗面台が設置されており、疑問に頭をひねりながらもしかし有効に活用させてもらっていた。
「おはようございます」
 階下から声がする。
 顔を拭きながら階段を下りていくと、バケットを片手に持った幼馴染たちがいた。
「はよ、アスラン。姫さん」
「おはよう。ディアッカは眠そうだな」
 欠伸を零しながらディアッカは愚痴る。
「そりゃ、一晩中校内を走り回って、寝たのが一時間ほど前だからな」
「やっぱり眠たいのか」
「今回はじめて虎のコーヒーがありがたいと思ったよ」
「イザークとニコルは?」
 室内を見渡したアスランが問う。
「校内のどこかにはいるだろう。俺もまだ起きてから会ってないからな」
「生徒会って大変なんだなあ  あ、わたしはこれでクラスに行くな」
「まだ七時は来てないぞ」
「さっきアサギからメールがあって、力作が完成したから早く来て、と」
「あれか。やっと完成したんだな」
「アサギたち徹夜をしたみたいだ。じゃあ、先に行くな」
 カガリは手を振りながら走り去って行った。
「力入っているな」
「気に入らないからといって作り直すくらい気合が入っているからね」
「ところで、アスランが持っているそれは朝飯か?」
 カガリの姿が見えなくなるまで手を振っていたアスランが頷く。
「茶粥作ったのか」
「いや、さすがにそれは無理があるというか」
「そう言いながら作ってくるかと思ってたけどね」
「作ろうとは思ったけれど難しかった」
 ディアッカは頭の後ろで手を組み辺りを見渡す。
「しっかし腹減った。早く帰ってこないかね。あの二人は」
「朝食の準備が出来た頃に帰ってくるんじゃないか」
「そうだと俺はありがたい。さてと、かわいそうだがソルを起こすかな」
 室内に入っていくアスランの後を追いながら、ディアッカはふと足を止めた。
 晴れた空は高く、円を描くように鳥が回旋している姿が見える。
  今日からか」
 高校生活最後の文化祭が始まる。
「おっと、忘れないうちにメールを送っておかないと」
 ディアッカはポケットから携帯電話を取り出した。




***




 ぽつり、ぽつりと水が滴り落ちる。水滴は幾重にも広がる波紋を水面に広げていく。聴こえてくるのはその水音だけ。
 凛とした空気が張り詰める光の届かない闇の世界。
 そこには果てしない時を経て造られた鍾乳石が垂れ下がり、石筍が乱立する。
 白い岩肌が幽かに発光している。
 その最奥に岩肌から染み出る水を湛える暗き湖がある。
 水は凍みるように冷たい。
 吹くはずのない風が一陣、湖面を吹き去った。水は飛沫をあげ対岸に打ち当たる。
  ついに……時がきたか」
 静寂を破るように声が響いた。
 人の姿などなかった湖の中に男が一人立っていた。灯りなどない暗闇の中にまるで光り輝くかのように。
 腰まで水につかり、肩口で切りそろえられた銀髪が残り風になびいている。
 二十代前後の端整な顔立ちをした男だ。
 彼の羽織る長布巾の裾が水間に漂い広がる。
 風の吹き去った方向を見据えていた男は目を逸らし、片手で水をすくい、高く掲げる。その隙間から幾筋にもなり水が流れ落ちる。
「……輪が廻りはじめた。抗うことの出来ない運命の輪が。歪められた輪は元に戻り  
 小さな呟きは水音に紛れ消えていく。
「封印は解かれた」
「イザークさま」
 声が落ちる。
 くくくっ、と笑いながら男はゆっくりと顔をあげる。
 何もない空間に突如炎が舞い上がり、朱炎の中から少女が姿を現した。
  シホ。珍しいこともあるお前のほうからここへ来るとは」
 シホと呼ばれた少女は、身にまとう薄紅色の羽衣をなびかせながら、水面ぎりぎりまで降りてきた。
「火急の用です。苦手だと言っている暇はありません」
 ふと男の表情が変わる。
「巫女がお呼びです」
「ディアッカとソルは?」
「イザークさまとは違い、お二方は使いを出さずとも来られますし、すでに動かれております」
 少女の苦言に男はまた微笑う。
「では行くか。巫女のもとへ  」









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